日本から無一文で渡米し、ニューヨークで医師として生きた 高見豊彦。
貧しい移民たちへの無償医療、日本人共済会と日本人墓地の設立──
その行動の根底にあったのは、異国の地で出会った一人の老婦人、
ナンシー・キャンベルから受け取った無償の愛と
「人は誰もが平等に生きる権利がある」という信念だった。
墓碑に刻まれた “Campbell” の名が静かに物語る、
国境と血縁を越えた親子の物語。

毎年5月に行われる日本人墓参会

ニューヨーク市クイーンズ区に、日本人墓地があります。
毎年5月下旬、メモリアルデーの祝日には、ニューヨーク日系人会主催の墓参会が行われ、100年以上前に日本人社会の礎を築いたおよそ100人の故人たちを静かに偲びます。
その墓地の一角に、ひときわ目を引く大きな墓石があります。
そこに刻まれているのは、
Toyohiko Campbell Takami
という名。
日本からたった一人、何の後ろ盾もなくアメリカへ渡り、ニューヨークで医師として名声を集めた人物──それが高見豊彦でした。
彼の医療技術は広く知られ、日露戦争で日本を勝利へ導いた東郷平八郎海軍大将が、アメリカで緊急入院した際には主治医を務めています。

一方で高見は、急速な経済発展の陰で苦しむ移民たちに、無償で医療を提供し続けました。
慈しみをもって患者に接し、また現在のニューヨーク日系人会の礎を築き、日本人墓地設立にも多大な貢献を残しました。
彼が常に心に抱いた言葉があります。
「人は誰もが平等で、誰もが幸せに生きる権利がある」
その信念の源は、どこにあったのでしょうか。

500キロを歩いた15歳の決意
高見豊彦は1875年、熊本県の士族の家に生まれました。
厳格な教育のもと育った15歳のとき、彼の人生を変える話に出会います。
それは、新島襄の物語でした。
幕末、日本を密かに脱出してアメリカへ渡り、神学を修め、帰国後に同志社大学を創設した人物。
その生き方に、少年・高見は強く心を打たれます。

「自分も、アメリカへ行く」
しかし、19世紀末の日本で海外渡航は容易ではありません。
渡航費もなく、目的も定まらず、家族の理解も得られない。
それでも高見は夢を捨てませんでした。
外国船の乗組員になれば、働きながら海外へ行ける──そう知った彼は、ある夜、両親に告げることなく家を出ます。
熊本から大阪へ。
家族が港で待ち構えていることを知り、船を諦めた高見は、約500キロの道のりを徒歩で進むことを選びました。
一日25キロを歩く日々。
腫れ上がる足。底をつく所持金。雨の夜、交番で一夜の宿を願い出て断られたこともありました。
それでも、見知らぬ人々の善意が彼を支えます。
広島の山中で野宿していた夜、地元の猟師が彼を家に招き、温かい食事を振る舞いました。
幾度もの助けを受けながら、岡山で親戚と合流し、神戸で船乗りの仕事を得て──
1891年10月、16歳の高見は、ついにニューヨークの地を踏みます。
運命の出会い ― ナンシー・キャンベル
19世紀末のニューヨークは、世界屈指の大都市へと成長する一方、南・東ヨーロッパから流入した移民たちが極貧の生活を送る街でもありました。
英語を学び、資金を貯め、大学へ進学する。
それが高見の目標でした。
軍艦のシェフとして働き、やがて料理長を任されるほど信頼を得た彼に、艦長が一人の老婦人を紹介します。
英語を話せない外国人のため、無償で英語教室を開いている人物がいる──。
1893年3月、寒い日のことでした。
高見の自叙伝『輝ける星』には、その出会いがこう記されています。
呼び鈴を鳴らすと、気品のある老婦人が扉を開け、
知に輝いたまなざしでこちらを見た。

彼女の名は、ナンシー・キャンベル。
17世紀に渡米したスコットランド貴族の末裔で、敬虔なキリスト教徒でした。
キャンベルは高見の志を理解し、毎晩英語を教え、やがて共に暮らすようになります。
彼女は高見を、実の息子のように愛しました。
ある夜、高見は問いかけます。
なぜ、こんな貧しい地域に住み続けるのか、と。
キャンベルは夜空を見上げて、こう答えました。
「あの星は、立派な邸宅の上にも、
そして、私たちの上にも、同じように輝いているのよ」
この言葉が、高見の人生哲学となります。

医師になるという選択
進学の時期が訪れます。
キャンベルは奨学金の交渉をし、足りない学費も補いました。
高見もキャンベルの世話ばかりなるまいと、休暇の際は病院船でシェフのアルバイトをしました。
キャンベルの願いは、高見が牧師となり、神の教えを広めること。
プリンストン神学校への進学話も進んでいました。
しかし高見は、静かに告げます。
「私は医者になりたい。
自らの日常生活を通して、一生涯、福音を伝えたいのです」

また、医者を志した理由に、
ニューヨークで目の当たりにした、貧しい移民たちの存在がありました。
彼らの多くは、テネメントと呼ばれる集合住宅に押し込められるように暮らしていました。
狭く、暗く、換気も不十分な部屋に家族が密集し、
衛生状態の悪さから伝染病が蔓延していたのです。
十分な医療を受けることもできず、静かに命を落としていく人々が後を絶ちませんでした。
高見は、ニューヨークに来た当初から、
この現実を「遠くから」ではなく、日常の風景として見続けていました。
貧困と病が切り離せないこと、
そして最も弱い立場にある人々ほど、医療から遠ざけられているという事実を。
自分自身もまた、無名の移民としてこの街に流れ着き、
多くの善意に支えられてきた。
だからこそ高見は考えます。
もし自分が救われてきたのなら、
次は自分が、救う側に回るべきではないのか。
それこそが、
キリストの教えを言葉で語るのではなく、
生き方そのもので実践することではないのか──。
こうして高見は、医師になる道を選びました。
1902年、高見は コーネル大学 医学部 に入学します。
当時のアメリカでは、医学教育の制度はまだ統一されておらず、
大学によって教育水準には大きな差がありました。
そうした中で、コーネル大学医学部は、
ニューヨークの大病院と提携し、在学中から実地訓練を重視する、
先進的な医学教育を行う数少ない大学のひとつでした。
高見はここで、
ユーイング肉腫の発見者として知られる病理学者
ジェームズ・ユーイング博士 らから指導を受けます。
奨学金を維持するためには、常に優秀な成績を保たなければならない。
高見は食事も忘れるほど勉学に没頭し、
その無理をたびたびキャンベルに叱られたといいます。
そして1906年、
高見は優秀な成績でコーネル大学医学部を卒業しました。
卒業に際して、現地の新聞は、
日本から渡米した一人の青年が、
数々の困難を乗り越えて医師となったことを取り上げ、
その努力と成功を称えています。

16歳で英語も満足に話せずニューヨークにたどり着いた少年が、
31歳で医師として社会に迎えられた瞬間でした。
高見は卒業式の日、
「潔く純潔なる生涯を送り、医業を全うせんとす」
というヒポクラテスの誓いを胸に刻んだといいます。
それは、
「自らの日常生活を通して福音を伝える」という、
かつてキャンベルと交わした約束を、
現実のものとして生き始める第一歩でもありました。
名もなき日本人のために ― 墓地建設という決断
医師として独り立ちした高見は、
ブルックリンの貧民街に自らの診療所を構え、
貧しい人々に無償で医療を提供しながら、精力的に活動を始めました。

同時に、高見の胸の奥には、
どうしても拭い去ることのできない記憶が残り続けていました。
それは、コーネル大学医学部在学中に経験した、
検死の実地訓練での出来事です。
ある日、医学生たちのもとに、研修用として十数体の遺体が運び込まれました。
名札を確認した高見は、その中に
日本人と思われる名の遺体を見つけます。
自分は今、医学生として学ぶ機会を与えられている。
だが、この亡くなった日本人も、かつては
夢や希望を胸に、同じようにアメリカへ渡ってきたのではないか。
家族がいたかもしれない。
恋人がいたかもしれない。
それでも彼は、
名前すら十分に記録されることなく、
ただ番号で区別される「遺体」として横たわっていました。

その光景は、高見の心に深く突き刺さります。
——もし自分が、少し運に恵まれなかったら、
ここに横たわっていたのは自分だったのではないか。
このとき高見の中に、
名もなき日本人のために、せめて尊厳ある眠りの場所を
という思いが、はっきりと形を取り始めました。
医師となった後も、その考えは消えることはありませんでした。
当時のニューヨークでは、
異国で亡くなった日本人移民の多くが、
十分な葬儀も行われず、
場合によっては身元不明のまま扱われていました。
高見は、
日本人同士が互いに支え合い、
生きているあいだだけでなく、
死後も尊厳を守る仕組みが必要だと考えます。
1907年5月、
その思いを形にするため、日本人共済会が発足しました。
高見は発起人として会長に就任します。
共済会の活動は、
医療や生活の相互扶助にとどまらず、
亡くなった日本人をきちんと弔うことへと広がっていきました。

そして1912年、
長年の念願であった
ニューヨーク日本人墓地の土地を購入します。
それは単なる墓地の確保ではありませんでした。
異国の地で生き、名もなく亡くなった日本人たちに、
「あなたは確かに、ここで生きていたのだ」と刻むための場所。
高見にとって墓地建設とは、
医師としての使命の延長であり、
キャンベルから教えられた
「人は誰もが平等に生きる権利がある」という思想を、
最後まで貫く行為だったのです。
感謝と別れ
医師として自立し、経済的にも精神的にも独り立ちした高見は、
ある思いを抱き続けていました。
それは、
長年にわたり無償の愛で自分を支え続けてくれた
ナンシー・キャンベル への感謝を、
言葉ではなく、形として残したいという思いでした。
家出同然でアメリカに渡ってきた少年を受け入れ、
学費や生活費を工面し、
進路に迷うときには寄り添い、
実の息子のように見守り続けてくれた存在。
そのキャンベルも、
高齢のため日増しに体力を失いつつありました。
ある夏の日、高見はひとつの贈り物を用意します。
キャンベルを部屋に招き入れると、
壁には一枚の布がかけられていました。
彼女は不思議そうに尋ねます。
「あれは、何ですか」
高見は静かに答えました。
「これは、世界で最も高貴な人物の肖像画です」
布を外すと、
そこに現れたのは、若き日のキャンベルの肖像でした。
それを見つめた彼女は、
しばらく言葉を失い、
やがて、静かに涙を流したといいます。
自分が与えてきた愛が、
この青年の人生の中で、
確かな意味を持っていたことを悟った瞬間だったのかもしれません。
そしてキャンベルは、
高見にこう語りました。
「もう私の仕事は、これで一切終わりました。
安心して、いつでもあの世に行くことができます。
神の祝福、わが愛しき子の上にあれ」
二人が出会ってから、およそ十五年。
少年は、彼女が誇りに思うに足る大人へと成長していました。
キャンベルは1907年1月、
八十年の生涯を閉じました。

輝ける星は、今も
キャンベルが世を去ったあとも、
高見豊彦の歩みは、変わることなく続いていきました。
高見は1935年に医師としての第一線を退くまで、
「慈愛の医師」として多くの患者と向き合い続けました。
貧富や人種の違いによって診療の手を分けることはなく、
常に患者一人ひとりの声に耳を傾けたと伝えられています。
また医療の枠を超え、
ニューヨークに暮らす日本人社会の中心的存在として、
数多くの組織の設立や運営に関わりました。
互いに支え合う仕組みをつくり、
異国で生きる人々が孤立しないための基盤を整えていったのです。
そうした日米両国をつなぐ長年の活動が認められ、
1940年、高見は日本政府より勲六等瑞宝章を授与されました。
そして1945年5月17日、
高見豊彦は70歳で、その生涯に幕を閉じます。
クイーンズの日本人墓地に建つ彼の墓碑には、
次の名が刻まれています。
Toyohiko Campbell Takami
1875 – 1945
ミドルネームとして刻まれた「Campbell」。
それは、彼が人生の師として、
そして母として慕い続けた
ナンシー・キャンベル の姓でした。
記録によれば、高見は正式にキャンベル家の養子となっていました。
その名を自らの墓碑に刻ませたことは、
彼女への感謝であると同時に、
血縁を超えて結ばれた関係が、
「本当の親子」であったことを示す、静かな証でもあります。
かつてキャンベルは、高見にこう語りました。
「人は誰もが平等に生きる権利がある」

高見は、その言葉を生涯忘れることなく、
医療という形で、
共済という形で、
墓地という形で、
この街に残していきました。
輝ける星は、
今も変わらず、
すべての人の上に、静かに光を注いでいます。



