明治初期に20歳の若さでアメリカにわたり、日本産生糸販売のためにひとりで貿易ルートを開拓した人物の物語です。
Youtube:NYビジネス社会に一人挑んだ生糸貿易創始者の物語
シルクは蚕が繭を作る際に吐く糸を原料とする繊維だ。
発祥は古代中国とされ、その製造方法は長く門外不出。
ある王女が髪の毛の中に蚕の卵を隠して外国に持ち出したという伝説が残っている。
美しい絹製品は西アジアやヨーロッパでも人気があり、
東西の交易路は絹の道「シルクロード」と呼ばれ、絹製品は金や宝石と取引されていた。
その後も上品で繊細な絹製品はあらゆる時代、あらゆる場所で人々を魅了し続けた。
時は過ぎ、19世紀。
イギリスで産業革命がおき、先進国を中心に資本主義経済の仕組みが出来上がった時代。
明治維新をへて新しい政府が立ち上がった日本は、
「富国強兵」の名のもと、外国に日本製品を輸出して外貨を稼ぐ方法を探していた。
そんな明治政府が目をつけたのが、絹製品の材料となる生糸だった。
すでに日本各地で盛んだった生糸の生産を「殖産興業」とし、
政府はその発展を後押しした。
まさに「国策」といえる日本産の生糸を世界で販売することに、
文字通り人生を捧げた男がいた。
新井領一郎、人呼んで「日本生糸貿易の創始者」。
わずか20歳でアメリカにわたり、生糸の販売に奔走。
日本が世界一の生糸輸出国に成長するのを支えた。
そこには、シルク界の巨人たちがいた。
思うように行かず、苦悩することもあった。
そんな彼を支えたのは、最も大切にしていた「誠実さ」だった。
時代に翻弄され、そして、また時代に愛された男は、
いかにして「日本生糸貿易の創始者」と呼ばれることになったのか、激動の生涯に迫る。

新井領一郎は1855年、現在の群馬県桐生市にあたる
上野国水沼村に生まれた。
生家である星野家は地域の有力農家として名字・帯刀を許されており、
代々養蚕業に励んでいた。
12歳のとき、生糸の卸売を営む新井家に養子に出され、
新井領一郎と名乗ることになった。
やがて領一郎は東京にでて、東京大学の前身である開成学校に通った。
明治の世となったばかり。英語とビジネスを学んだ。
新井の地元、水沼村がそうであるように、群馬県では養蚕業が盛んだ。
その寒冷な気候が、蚕が育つための桑の木の育成に適しており、
平安時代には、この地域で作られた絹製品が朝廷に献上されていたという。
生糸の生産を殖産興業とした明治政府は、
この地に日本初の官営の生糸生産工場である富岡製糸場を設立した。
当時、絹産業は世界的に大きな転換期を迎えていた。
業界を長くリードしてきたフランス製品の衰えが目立ち、
それにかわって絹製品を大量に生産していたのがのがアメリカだ。
南北戦争が終わり、世界中から大量の移民が流入。
多くの産業で工業化が進み、好景気に湧いていた。
1876年、アメリカ独立100年を祝って、
フィラデルフィアで万国博覧会が行われると、
明治新政府は莫大な予算を注ぎ込み、生糸をはじめ日本製品のPRにつとめた。
その品質の高さは、現地の新聞に「東洋のアメリカ」と紹介され、
右肩上がりを続けるアメリカの市場で日本の製品が注目されることになった。
さて、新井には10歳はなれた実の兄がいる。
名を星野長太郎という。
群馬の豪農である長太郎もまた、生糸貿易の可能性に目をつけ、
地元・水沼村に生糸の工場、水沼製糸所を設立。生糸の輸出に乗り出した。
ただ、当時の生糸の輸出には大きな障壁があった。
生糸に限らず海外に日本の製品を輸出する際には、
横浜にある外国人居留地を経るのが一般的で、
窓口となっている外国人商人たちが大きな利益を得る仕組みになっていた。

長太郎は、このように外国人商人たちの手を経ることなく、
直接海外の生糸業者に販売する、
いわゆる「直貿易」(じかぼうえき)の道を模索するようになり、
実の弟である新井領一郎を外国に送り出すことを考えた。
幼いころから養蚕業にたずさわり
さらに英語を学んでいる新井はまさにうってつけの人物であった。
ちょうどその頃、一足先にアメリカで生活していた佐藤百太郎(さとう・ももたろう)が
ニューヨークでビジネスを始めるためのパートナーを探していた。
長太郎は弟の領一郎を佐藤に託し、
新井たち一行はオーシャニック号でアメリカに赴くことになった。
このとき新井や佐藤とともにオーシャニック号でアメリカにわたった若者たちは、
のちに「オーシャニック・グループ」と呼ばれ、
日米貿易のパイオニアとして長く語り継がれることとなる。
ときは1876年、新井はまだ20歳だった。

その頃のアメリカのシルク産業はまさに日の出の勢いだった。
その中心にあるのが業界の有力者たちにより結成されたアメリカシルク協会。
定期的に機関誌を発行し、生糸の輸入から絹製品の製造、販売まで
シルクに関するあらゆることを網羅していた。
またアメリカ政府は国内での絹製品の生産を奨励すべく
海外から輸入される絹製品に6割という高い関税をかけた。
こうして世界中からアメリカへの生糸の輸出量は増え続け、
この10年間でおよそ3倍となった。
ニューヨークに着くと新井は
水沼産の生糸、そしてニューヨーク領事からの紹介状を携え、
さっそく有力な生糸の仲介業者を訪ねた。
ちょうど日本産の生糸が注目を集めた始めた時期。
新井の心は希望に満ち溢れていたに違いない。
しかし新井の初の取引は失敗に終わる。
その仲介業者、ウィリアム・スキナーは新井に会うと、ある生糸の束を持ち出した。
それは以前購入した日本産の生糸だといい、
驚くべきことに、その生糸には金属片などが混入されていた。
重量を誤魔化し生糸を高く売るために不正を行っていたのだ。
日本産の生糸、さらには日本人への信用を高めること、
このとき新井は外国で商売をするために必要なことを学んだに違いない。
それから4週間後、新井は別の仲介業者、ブリトン・リチャードソンを訪ねた。
彼は日本産生糸の品質の高さを知っており、新井に好意的だった。
前回の交渉が嘘のように商談は順調に進み、1ポンドあたり6.5ドルで取引が成立、
400ポンド、およそ1.8キログラム販売することに成功した。
しかし、このあと事態は想定していなかった方向へ進む。
新井が値段など契約内容の詳細を記した手紙を長太郎に送ったあと、
日本の生糸の価格がおよそ8割あがった。
この夏、ヨーロッパにおける生糸の生産が激減したため、日本産の生糸が高騰したのだ。
新井が契約した際の価格で販売すると、およそ1500ドルの損失となる。
ビジネスがまだ軌道に乗っていない長太郎たちにとって途方もない損失であった。
これでは倒産してしまう。
長太郎はリチャードソンと再び金額の交渉をするよう新井に提案した。
しかし新井の考えは違った。
新井は前回の取引が失敗した際、
まず勝ち得るべきものは「お金」ではなく「信頼」であることを強く学んだ。
「一度契約した内容を覆すことは信用問題につながる」として
長太郎の提案を頑なに拒んだ。
長太郎は新井の決意を尊重し、家財道具などを売り払いどうにかしてお金を工面した。
市場の動向をつぶさに観察していたリチャードソンは、
当然、新井が再び値段の交渉をすると思っただろう。
しかし、新井はそれをしなかった。
リチャードソンは新井の誠意ある姿勢に感謝し、次のような手紙を送った。

親愛なる新井さんへ
最初に契約した際の価格でオーダーしてくれてたいへん嬉しく思います。
あなたの誠実さに応えて、私もできる限り金額をあげられるよう頑張ります
ブリトン・リチャードソン
リチャードソンはこの若い日本人ビジネスマンに敬意を表し、
最終的に1ポンドあたりの価格を1ドル上乗せし7.5ドルで取引をした。
こうして日本産の生糸がはじめて外国人商人を経由することなく、
日本から輸出されることになった。
この歴史的取り引き成功の裏側には、
「ビジネスに一番大切なことは顧客と誠実に向き合うこと」という
新井領一郎の信念があったのだ。
実の兄、長太郎が新井をアメリカに送り込んだことにはもうひとつ理由があった。
それは現地の生糸産業に関する最新の情報を届けて欲しいということだった。
すでに述べたように、当時の日本では外国人商人が貿易の窓口となっている場合が多く、
それは同時に海外の市場に関する情報も彼らが独占しており、
長太郎など日本の業者には、現地ではどのようなものがはやっているかなど、
最新の情報が届かないことを意味していた。
初めて取引が成立してからおよそ半年後、新井は長太郎への手紙のなかで、
「日本産の生糸は繰り返し工程に適しておらずアメリカの業者には不評だ」
と日本の生糸の弱点を的確に指摘していた。
これは、現地で関係者から生の声を聞くことができた
新井だからこそ知り得た情報であった。
絹製品の工業化がはじまったアメリカの生産業者が求めているのは品質が均一の生糸。
生糸は蚕という生き物が吐き出す糸を原料としているため、
そもそも品質にムラがありやすい。
それに加えて木製の器具を手で動かし束をつくる日本独自の製法で作られた生糸では、
品質を均一に保つことがさらに難しくなる。
そこで長太郎は手動ではなく、器械の力を使って生産する生糸を開発。
この製法による生糸は従来のものより品質のムラが少なく、
すぐにアメリカ市場に受け入れられた。
手応えをつかんだ長太郎は、出資者を募り生糸の輸出会社である同伸会社を横浜に設立、
領一郎がニューヨーク支店長に就任した。
兄と弟、日本とアメリカ遠く離れていながらも、お互いの力を合わせて、
ようやくニューヨークでビジネスをはじめる足がかりができた。
1880年代に入ると、アメリカではますます絹産業が盛んになる。
ニューヨークからわずか20キロ離れた「シルク・シティ」として知られるパターソンに
大量の資本が投入され、絹製品を製造するための機械化が急速に進んだ。
またこの頃、生糸をニューヨークに運ぶための専用の高速鉄道、いわゆる「シルクトレイン」が誕生。
サンフランシスコやシアトルに到着した日本産の生糸を
東海岸に運ぶインフラが整っていった。
日本からの輸出量は増加の一途をたどり、
日本産生糸がアメリカ市場で欠かせない存在になっていった。
しかし順風満帆にみえる生糸の輸出も徐々にほころびがみえるようになる。
急速に増加する生糸の需要に日本の生産側がついていけず、
結果として、アメリカの業者が満足いく品質の生糸を維持できなくなっていった。
アメリカシルク協会はその年次リポートで
「確かな名声を得てきた日本産生糸の評判が傷つけられた」
と苦言を呈することもあった。
こうした悪評を覆すため、新井は日本とアメリカを行き来して、
日本の製糸業者にアメリカ側が必要としている規格を説明して回った。
当時新井が日本で行ったある演説の記録が残されている。
そこにはこのような一節が。「需要者の意に背かざらん」。
あくまで顧客が必要とするものを生産すること。そして信頼を勝ち取ること。
文化や生活習慣の全く違うアメリカで信頼を得るためには
より一層の努力が必要なことを、新井は集まったひとたちの前で力説した。
そもそも粗悪品が市場に流れる根本的な原因に、
日本の生糸生産者たちが慢性的な資金不足に陥っていることがあった。
どうにかして生糸の直貿易を行っていたとはいえ、
まだまだ日本産生糸の輸出の大半は外国人商人に握られており、
日本人の生糸業者の収入はけして多いとは言えなかった。
さらに度重なる不景気から政府が補助金を削減する方針をうちだした。
実の兄・長太郎が経営する水沼製糸所も資金繰りに苦労し、
ほどなく操業を停止する憂き目にあっている。

またニューヨーク市の法律により、現地法人を設立したほうが
税金や手形の面で優遇されることが多く、
つねに資金繰りで苦労している新井は同伸会社の現地法人化を強く訴えていた。
しかし新会社設立のための出資を長太郎が拒み、
少しずつではあるが、兄弟の間に溝ができるようになった。
この時期、アメリカには新井以外にも日本人の生糸業者がいたが、
ニューヨークのビジネス社会で知られていたのは新井だけだった。
初めて新井と生糸販売の契約をしたリチャードソン。
このときアメリカシルク協会の書記長であった彼は、
「同伸会社の新井領一郎は、粗悪品をただし品質の改良に努めている」
と、新井を高く評価している。
日本とアメリカの架け橋となるべくビジネスに取り組みながらも、
まわりに理解者が少なく、ひとり孤独な戦いを続ける新井。
その瞳にニューヨークの空はどのように映ったのだろうか。
ひとり誠意をもってビジネスに取り組んでいた新井に、
友から救いの手が差し伸べられる。
およそ20年前、新井と一緒の船でアメリカに渡った
「オーシャニックグループ」のひとり森村豊。
ニューヨークで陶磁器の直貿易で成功していた森村は、
新井に同伸会社をやめて、ともにビジネスすることをもちかけた。
森村とビジネスを始めるということは、
すなわち、実の兄・長太郎と袂をわかつことを意味していた。
それでも日本の国益のため、しいてはアメリカにおける日本人の評価を高めるため、
より一層生糸貿易に尽力したい新井は、
1893年、ニューヨークの現地法人「モリムラ・アライカンパニー」を設立。
皮肉なことに、アメリカで商売をする機会を与えてくれた兄と決別することによって、
新井のビジネスはますます軌道に乗ることになった。
1901年、長年にわたる新井の孤独な戦いが実を結んだ。
日本とアメリカの架け橋となってシルク産業の成長を支えたことが認められて、
アジア人初となるアメリカシルク協会の役員に選ばれたのだ。
新井の会社はますます業績をあげ、
日本からアメリカへの生糸の輸出のおよそ3分の1をしめるようになった。
これは外国人商人たちを含めてもトップの数字。
以後、日本人商人による直貿易が広くアメリカでも受け入れられるようになる。

また新井の活躍は社交にまで及んだ。
アメリカシルク協会が主催となって行われる800人規模が参加するアニュアルディナー。
役員となることで新井の存在感が高まり、
当時のアメリカ公使やニューヨーク総領事など外交のトップが招待されるようになった。
1905年にはニューヨークの日本人コミュニティの有力者である
高峰譲吉、村井保固らとともに、日本クラブの創設に尽力。
このような社交面での活動により日本への理解が高まり、
日本産生糸はますますアメリカ市場で受け入れられるようになった。
1920年には、アメリカの輸出総額のうち、生糸が占める割合は3分の1に達した。
わずか400ポンドから始まった「信頼の絆」は、
2億円を超える超巨大ビジネスに成長したのだ。
このとき新井は65歳、人生の3分の2をアメリカで過ごしたことになる。
はじめて新井がアメリカにわたったときは二流国と言われた日本も、
世界の一等国として認められるようになった。
新井の成功物語はまさに日本が世界へ羽ばたく時期と歩みをともにしている。
時代に愛され、時代とともに成長した男は、
いつしか、「日本生糸貿易の創始者」と呼ばれるようになった。

この物語は1939年、おわりを迎える。
自宅で悠々自適に暮らしていた新井は肺炎で亡くなった。享年84歳。
生糸貿易のレジェンドの惜しまれる死を悼んで、
生糸の商品取引所では、1分間の黙とうがささげられたという。
新井が生涯をかけて貫いた、誠意を尽くすこと、信頼を勝ち得ること、
時をこえて、今も生き続けているに違いない。


