NYでミリオネアとなった男、森村豊とは

高級食器・ノリタケの創業者一族で、国益のために日本製陶器の貿易に生涯を捧げた男の物語です。

1899年8月、アメリカ各地の新聞である日本人の訃報記事が掲載されました。
森村豊(もりむら・とよ)、享年45歳。
日本雑貨の輸入会社「モリムラ・ブラザーズ」の代表です。

当時のニューヨーク・タイムズの記事を読んでみましょう。
森村さんの生涯が丁寧に綴られ、文章の末尾には「ミリオネア」という文字が。
日本での知名度が驚くほどに低い森村さんは、
生き馬の目を抜くニューヨークのビジネス社会で、
紛れもなく「成功者」として認められていたのです。

激動の明治初期、20歳前半の若さで海をわたり、
不断の努力と経営感覚でもってビジネスを拡大していった森村豊さん。

慣れない海外での生活にひとり苦悩したことも。

それでも、視線の先には確かな未来がありました。

日米貿易のパイオニア、森村豊さん。
彼がその生涯を通して伝えたかったものとは、いったい?

森村豊さんは1854年、
江戸商人・五代目森村市左衛門(もりむら・いちざえもん)の家に生まれました。
ペリー提督が黒船を率いて来航したちょうど翌年。
およそ260年つづいた太平の世に暗雲が立ち込めていました。
豊さんには15歳離れた兄・市太郎(いちたろう)がいました。
のちの森村財閥の創設者で日本を代表する実業家となる六代目・森村市左衛門も
このときは一介の江戸商人でしかありませんでした。

市太郎は弟の豊さんが11歳になるとこういいました。
「国家のために、英語を覚えて、外国で商売をし、金を取り返してくれないか」

ときは1865年、江戸幕府は諸外国の圧力に屈し、
開国するとともに不平等な条約を結ばされていました。
こと貿易に関しては、横浜に居留する外国人商人たちの手によって行われる、
「居留地貿易」によって、
日本の金や銀がどんどん外国に出ていってしまいました。

このままでは日本の富がなくなって外国の食い物にされてしまう。
日本を守るために市太郎は考えました。
それは外国人商人を仲介することなく、
現地に日本の商品を直に輸出する、
いわゆる「直貿易」を行うことでした。
そのためには外国に店舗を構え商いをする、彼の手足となるパートナーが必要でした。
そこで白羽の矢がたったのが15歳離れた弟・豊さんだったのです。

外貨を稼いで日本を豊かな国にしたい。
この市太郎の願いに豊さんは決意を示し、
「兄さんが国家のためになさるということであれば、私もどんなことでもします」
と答えたといいます。
ただ「国のために」・・・、兄弟の思いは、ひとつになりました。
このときわずか11歳の少年が、
のちに日米貿易のパイオニアになろうとは、いったい誰が想像できたでしょうか?

そうと決まればまずやるべきことは英語力の向上、
および諸外国の事情を学ぶことです。
当時、外国の事情に精通していたのは福沢諭吉でした。
市太郎は「弟を商人にするよう仕込みをお願いします」と福沢に話すと、
福沢は「それはいい、将来国を豊かにするには貿易に限る」と同意し、
豊さんは福沢の私塾、慶應義塾で学ぶことになりました。
ときは1871年、明治の世が開けて4年がたったところでした。

卒業後、兄との約束を実現すべく豊さんは外国で商売する道を探していました。
そんな折、思いがけない話が舞い込んできます。
すでにニューヨークで商売を始めていた実業家の佐藤百太郎(さとう・ももたろう)が
ともにビジネスを始めるパートナーを探しているというのです。
市太郎はなけなしのお金をはたいて豊さんをアメリカに送り出すことしました。
この時、豊さんとともに「オーシャニック号」で
ニューヨークにわたった青年が6人いました。
この6人はのちに「オーシャニック・グループ」と呼ばれ、
日米貿易のために初めてニューヨークに渡った日本人と言われています。
「日本の金を取り戻すために」・・・。兄との誓いを果たすため海を渡った豊さん。
1876年、わずか22歳でした。

当時のアメリカは南北戦争が終わって好景気に湧いていました。
鉄鋼王アンドリュー・カーネギー、金融業の覇者JPモルガン、石油王ジョン・ロックフェラーといった実業家たちが栄華を極めていました。
のちに「金メッキ」時代と言われ、アメリカが大きな成長をとげる時代でした。

大いなる志を抱きこの地に赴いた豊さんは、
当時どのような暮らしをしていたのでしょうか?
慣れない異国ぐらしのなか、質素倹約を旨とし、
朝食はパンとコーヒー、夕食は売れ残りの安い肉を食べました。
リンゴは半分だけ食べて残りは、翌日の腹の足しにしたといいます。

またいわれのない差別もありました。
当時は中国から大量の移民がニューヨークに流入しており、道を歩いていると

「チャイナマン」

とバカにされることがありました。見知らぬ人に石を投げられることもあったといいます。
また腹痛をわずらい医者を尋ねると、門前払いされたそうです。

そんな差別に負けることなく、豊さんは日本の雑貨などを販売する小売店、
「日の出商会」を佐藤たちと共同ではじめました。
資本金はそれぞれ1500ドル、現在の金額に換算すると600万円に相当する金額です。

兄の市太郎が日本の骨董品や漆器、団扇、扇子といった商品を
ニューヨークの豊さんのもとに送り、店頭に飾ります。
日本で商売をしたことがなく、初めての体験となる豊さんに追い風が吹きます。
この年フィラデルフィアで開催された万博で日本の物産展が好評だったことで、
「日の出商会」の商品は飛ぶように売れました。
市太郎が日本で3円で仕入れた生花の値段がおよそ30円相当の金額で売れました。
仕入れ値の10倍。豊さんたちは大きな利益を得ることができました。
幸運にも助けられ、豊さんの船出が始まりました。

それから2年後、豊さんは佐藤から独立して自分たちの店を開きました。
大型デパート、メイシーズをはじめ多くの商店があつまる
当時のニューヨークで一番のショッピングエリアです。
これこそが「モリムラ・ブラザーズ」の始まりであり、
豊さんはニューヨークのビジネス社会で一歩ずつ前へと進んでいくことになります。

ビジネスが軌道にのったのはひとえに豊さんの性格にありました。
毎朝店さきの清掃を欠かさず、商品についたチリをひとつひとつおとします。
夜は片付けのあと伝票を整理し誰よりも遅く家路へ。

アメリカ人の好みを研究することも怠りませんでした。
とっくりを物珍しそうに眺めるお客さんに、一輪挿しの花瓶として使うことを提案。
アメリカ人の生活習慣を観察しながら、自分たちの商品がどのようなものに役に立つか、
つねに頭を働かせていたのです。

豊さんの商売への誠実さが垣間見えるエピソードがあります。
あるアメリカ人の従業員が、
ひとセット5ドルの商品を誤って片方だけ5ドルで売りました。倍の値段ということです。
そのお客さんはそれに気がつかず満足して帰って行きました。
伝票整理の際そのことに気がついた豊さんは、
その従業員に伝票の書き直しを命じました。
しかしその店員は「客が5ドルで承知して買ったんだからそのままにしてはどうか」
と言いました。
それに対して豊さんは、「商人の利得には一定の標準がある。1個2ドル半のものを5ドルで売るという無法はやるできではない」と答えました。
これを聞いたその従業員は「こんな正直な、神のような人がいまどきいるものか。この人といっしょに働けば自分は真人間になれる」と感動したといいます。

ニューヨークで商売をはじめて5年。
傍からみれば順調にみえるモリムラブラザーズでしたが、
この5年間で多くの企業や商店がビジネスに失敗し
ニューヨークを去るのをみてきました。
5年先10年先、生き残るためにはどうすればよいのか、
豊さんは人知れずそのような悩みを抱えていました。

そんな折、豊さんの右腕である村井保固(むらい・やすかた)が
小売店から卸売業への転換を提案しました。
大量に商品を仕入れることで在庫をかかえるというリスクがある反面、
大口の契約をとりつければ安定して大きな収入を得ることができる。
小売業にこだわる豊さんと村井の意見は平行線をたどり、
その判断を日本にいる兄の市太郎に委ねることにしました。
市太郎が賛同したのは村井の意見、卸売業です。
「外貨を稼いで日本を豊かにする」というモリムラブラザーズの理念に照らし合わせ、
より利益が見込める卸売業へ転換することになりました。

兄がそういうのであれば間違いない。
自分の意見が却下されたことに不満を持つことなく、
豊さんは、すぐさま行動にうつしました。
1883年、モリムラブラザーズは、現在のソーホーという地区に店舗を移転しました。
ここはニューヨークやアメリカの小売業者たちはもちろん、
世界中から最新のトレンドを仕入れようと人々が集まる、いわば世界の卸売エリア。
常日頃から商品を丁寧に扱い、
商品に傷がついたり壊れていることが極めて少ないということで、
業界での評価が高かったモリムラブラザーズの商品はすぐに人気となりました。
さらにアメリカ人のセールスマンを雇って、
全米でカタログ販売を始めたのもこの時期です。
卸売り業への転換に不安を感じていた豊さんでしたが、
それも杞憂におわり、大口の契約が次々ときまり収入がより一層安定しました。
卸売業への転換はのちの大成功への大きな足がかりとなったのです。

次に豊さんが考えたのはオリジナル商品の開発です。
日本の骨とう品や扇子・団扇といった商品は日本ブームが終われば人気が廃れてしまう。
安定して需要が得られるもの、それは日常生活で使うものです。
アメリカ人の生活習慣をこと細かに観察する豊さんが目を付けたのが食器でした。
当時のアメリカでは多くをヨーロッパから輸入しており、
人気が高い反面、高級であることが多かったのです。
手始めにコーヒーカップを日本の窯元(かまもと)に作るようお願いしました。
日本の職人たちは器に取っ手をつけるやり方がわからないながらも
なんとか作り上げると、高品質で低価格のコーヒーカップは飛ぶように売れました。
次は庶民の憧れ、スタイリッシュな洋風のデザインが彩られた食器の開発です。
豊さんは社内にデザイン専門の部署を立ち上げ、この事業に力を注ぎました。
デザインを企画してはそれを日本の窯元に送り意見を求める。
洋風のデザインを全く知らない職人たちは難色を示しました。
遅々として進まない現状に、
「異人ができるのに自分たちができないわけないではないか」と
励ましの言葉を投げかけました。
このような努力が実り、およそ5年かけて洋風のデザインが彩られた食器が完成。
アメリカ中のデパートや商店に並んだモリムラ・ブラザーズの食器は
すぐさまアメリカ人を虜にしました。

この時期、日本の兄の元からモリムラブラザーズへの輸出額は年間でおよそ28万円。
現在の金額で1000億円に相当する日本の商品が海を越えていたことになります。
わずか1500ドルから始まったビジネスは、
1890年代のおわりには10万ドル近くの資産価値に達したといいます。
「国家の為、外貨を稼ぐ」という豊さんと兄の市太郎の思いは、大きく花開きました。

そして、豊さんが思い描くオリジナル商品の最終目標は、純白のテーブルウェアです。
話は1887年に遡ります。
当時、パリ万博に兄と視察に訪れていた豊さんはその純白の食器に心を奪われました。
日本の陶磁器の作り方では、欧米のものと製造方法が違うことから、
灰色がかったものしか作ることができませんでした。
すべてを見透かすような純白で硬質な食器。
これを自らの手で販売したらいったいどのくらいの利益になるだろうか。

熱々のクラムチャウダーはスープボウルになみなみと注がれる。
オーブンから取り出したばかりのこんがりと狐色に焼けたターキーは
ファミリーサイズの大皿に。
今まで幾多の困難を乗り越えてきた。きっとできるに違いない。
モリムラブラザーズが手掛けた純白の食器が
アメリカの家庭で使われる姿を想像していたでしょう。
豊さんの挑戦はどこまでも続きます。しかし…。

そんな矢先、1899年7月31日、森村豊が急逝しました。享年45歳。
これからもっともっとビジネスを広げる矢先での早すぎる死でした。

アメリカの新聞は各地で偉大なるビジネスマンの死を悼みました。

ニューヨーク・タイムズは故人の人柄にふれ、
「気前のいいビジネスマンでチャリティ精神も旺盛。従業員にとても人気があった」
と、書いています。

慶應義塾の学報は、冒頭に豊さんの肖像を掲載したのち、その死に触れ、
「当時の商人たちが先進国のやり方を学ぼうとしないのに比べて、
ほかのものとは異なる風格がある」
と激動の明治初期における豊さんのパイオニア精神を賛称しました。

豊さんの右腕だった村井保固(むらい・やすかた)。
その意志を引き継ぎモリムラブラザーズの業績を大きく伸ばし、
ニューヨーク日本人社会の元老のひとりとなりました。
人前でスピーチする際にはきまって豊さんの人格を褒めたたえ涙を流したといいます。

また、この数年前に6代目市左衛門を襲名した兄・市太郎は
「モリムラブラザーズがアメリカで成功しているのはひとえに豊の人格の賜である。
彼は私の弟であるが、精神・人格・事業の上では私の兄と思っている」
と最愛の弟の孤独な戦いに、最大の敬意を払いました。

実直に商いに没頭し、寡黙だった豊さんが生前残した言葉は多くありません。
そんな豊さんは兄に、あるとき、このようなことを言ったといいます。

「国家のために金を投じたい」

金を稼ぐのは自らの贅沢のためではない。みんなの幸せのために金を使うべきだ。
兄は弟の意思をうけつぎ、森村豊明会という
慈善事業団体を設立しました。
これは女性の社会進出などを助け、現代におけるフィランソロピーの先駆けとなりました。

実の兄に「国のため外国で商売をしてくれないか」と言われたのが11歳のとき。
22歳で海をわたり、慣れない異国での暮らしを経験し、
奮闘し、その商才で困難を乗り切り、ときに大胆に、ときに慎重に、
堅実にビジネスを拡大していった森村豊さん。
志なかばでこの世を去ることになりましたが、
その高潔な精神は、多くの人の心に刻み込まれたに違いありません。

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