村井保固――平凡な暮らしを夢見た青年が、ニューヨークで「元老」と呼ばれた話


今日ご紹介する日米貿易のパイオニアは、村井保固(むらい・やすかた)です。

森村豊亡きあとの森村ブラザーズを大きく発展させた立役者として知られ、ニューヨーク日本人社会では「元老」のひとりとして、新井領一郎や高峰譲吉と並び称された人物でもあります。

一見どこにでもいる青年が、やがてニューヨークで成功し、億万長者と呼ばれるまでになった――。
今回は、その人生の前半部分をたどってみます。


月給5円でいい――小さな夢しか持たなかった少年時代

村井康方は1854(安政元)年生まれ。
ペリー来航の翌年、日本全体が「この先どうなるのか」という不安な空気に包まれていた時代です。

生まれは、現在の愛媛県・伊予吉田あたり。身分としては下級武士の家でした。
14歳のときに江戸幕府が倒れ、明治新政府が誕生します。武士の身分は消え、「仕事をして食べていく」時代へと一気に変わっていきました。

そんな中、村井青年の夢はとてもささやかなもの。
知り合いのお兄さんが月給5円の教師をしていて、

「月給5円は中の上くらい。贅沢はできないが、食べていくには困らない」

と言うのを聞き、「自分もそのくらいでいい。公務員で、安定した仕事があれば十分だ」と考えていたといいます。

つまり、最初から「大成功してやる!」という野心家だったわけではなく、「ちょっといい職に就けたらいいな」という、ごく普通の青年でした。


品行方正とは程遠い? でもなぜか人に好かれる少年

とはいえ、村井は決して「品行方正な優等生」でもありませんでした。

勉強に行くためにもらったお金を遊びに使い込んでしまうなど、豪快なエピソードがいくつも残っています。真面目一徹というより、どこか抜けていて、しかし憎めないタイプ。

しかしそこがまた、彼の魅力でもあったようです。
周囲の人から妙に可愛がられ、チャンスを与えられることが何度かありました。その一つが、のちの人生を決定づける「東京行き」でした。


「村井保固伝」より

慶應義塾へ:悪友は犬養毅、真面目な級友は尾崎行雄

先輩のすすめもあり、村井は東京へ出て、慶應義塾で学ぶことになります。
もちろん自前で学費を払える余裕などなく、これも知り合いがなんとか工面してくれたものでした。まさに「幸運に背中を押されて」東京へ出てきた、という形です。

慶應時代、彼は決して「特別優秀な秀才」ではありません。
むしろ、よく遊び歩いていた側の人間でした。

遊び仲間のひとりが、後に首相となる犬養毅。
そして同じく慶應の仲間には、のちの「憲政の神様」尾崎行雄もいました。

犬養は大の遊び好きだったようで、当時の手紙には、

「この前あそこで遊んだのは面白かった。また芸者と遊ぼう」

といったやりとりが残っています。
村井もその「悪友グループ」の一員として、しょっちゅう遊び歩いていたようです。

一方で尾崎行雄は真面目で、遊びにはあまり付き合わなかったと言われています。
同じ教室に、後の日本を動かす政治家たちと、遊び好きの若者たちが同居していたわけです。


人気職は外交官と政治家――「自分は商人になる」と言ってしまった一言

当時の慶應義塾では、卒業後の「人気職」は政治家や外交官でした。
新しい時代のエリートコースとして、多くの学生がそこを目指して必死に勉強していたのです。

優秀な同級生たちを前に、村井は「そこまで頑張れるタイプでもない」と感じていたのかもしれません。
そんな中で、ふとしたきっかけから、

「自分は商人になる」

と口にしてしまいます。
この一言が、福沢諭吉の耳に入りました。

当時、ビジネスの世界は、まだ「政治家・官僚」に比べて格上とは見られていませんでした。
それでも福沢は、「これからの日本にとって、商人は重要な存在になる」という思想を持っており、村井のその一言を面白いと感じたのでしょう。
ここから、村井の人生は「国際商人」へと大きく舵を切っていきます。


ニューヨーク行きのチャンス:森村ブラザーズからの人材募集

ちょうどそのころ、ニューヨークの森村ブラザーズでは、創業者・森村豊のビジネスが軌道に乗り始めていました。

豊は日本の兄・市左衛門に向けて、

「英語と簿記ができる、有能な人材を日本から送ってほしい」

と要請します。

市左衛門はこの相談を、そのまま福沢諭吉に持ちかけました。
「ニューヨークの森村ブラザーズが、英語と貿易実務に強いアシスタントを探している。誰か適任はいないか」と。

このとき福沢が挙げた名前が――村井保固でした。

英語も簿記も本当にできるのかは正直怪しい。
しかし「こいつは何かやらかしそうだ」という、妙な大物感と人間的な魅力があったのでしょう。

能力よりも「人物」と「将来性」に賭けて、福沢は村井を推薦したのです。


英語も簿記もできない!? それでも抜擢された男

推薦を受けた森村市左衛門は村井と会い、「本当に大丈夫なのか?」と半信半疑。
ニューヨークの豊も、本来は「英語も簿記もできる人材」を求めていたはずです。

しかし、福沢諭吉の推薦は重い。
最終的に村井は、日本側の森村組で下働きを経験したのち、1879年、ニューヨークへ送り出されることになります。

到着して本人に確認してみると――

「英語も簿記も、実はほとんどできない」

という驚きの事実が判明します。
豊からすれば、「なぜ兄は、こちらの条件と違う人間を送ってきたのか」と思ったに違いありません。

そこへ追い打ちをかけるように、第一印象もあまり良くなかったようです。
背は高くなく、体型はずんぐりむっくり。目はきょろきょろと落ち着きがなく、不安そうに見えた――そんな描写が残っています。

それでも豊は、最終的に「接客」を担当させてみることにしました。
自分は帳簿係に回り、村井には店頭での販売を任せてみたのです。

この判断が、のちに大きな成功を生みます。


ニューヨーク到着早々、「1ドル馬車事件」

村井の「大物なのか、ただの頑固者なのか分からない」性格を象徴するのが、ニューヨーク到着直後のエピソードです。

サンフランシスコまで船で渡り、そこから鉄道でニューヨークへ。
到着後は、駅から森村ブラザーズの店まで馬車で向かう手はずでした。

ただし、村井は「馬車代の相場」を知りません。
そこで彼は、「1ドルあれば行けるだろう」と勝手に決め込み、通りがかった馬車に1ドル札を見せて交渉を始めます。

しかし、駅から店までの距離は、どう見ても「3ドル相当」。
住所を見せて「1ドルで」と申し出るたびに、

「1ドルじゃ無理だ」

と断られます。

普通なら、どこかで折れて3ドルを払うところですが、村井はなぜか妙なところで意地を張りました。

「ここで引き下がってはいけない。1ドルで乗せてくれる人が見つかるはずだ」

そう思い込んだのか、彼は1ドルで乗せてくれる馬車が見つかるまで粘り続けたのです。

その結果、店に到着したのは予定よりだいぶ遅い時間。
森村豊は

「なぜこんなに遅れたのか」

と問いただし、事情を聞いて呆れ半分・感心半分。

「1ドルで馬車を探し続けるとは、こいつは大物なのか、それともただの馬鹿なのか…」

そんな印象を持ったと伝えられています。
ここにも、どこか常識外れで、しかし妙にブレない村井の個性が表れています。


接客の天才として、店内セールスNo.1に

さて、肝心の仕事ぶりです。

英語も簿記もできない村井を前に、豊は最終的に「接客担当」に据える決断をします。
一見すると無謀な配置転換ですが、この判断が見事に当たりました。

村井は、片言どころかほとんど英語が話せない状態からスタートします。
それでも、身振り手振りを総動員し、笑顔と熱意でなんとか意思を伝えようと奮闘しました。

その結果――

店内セールスでは、村井がダントツ1位の売上をあげる

という状態になっていきます。

言葉のハンデを乗り越えるほどの「人間的な魅力」と「押しの強さ」。
ここでもやはり、福沢諭吉が見抜いていた「大物感」は間違っていなかったと言えるでしょう。


まとめ:どこにでもいる青年が、「送り出されるべき人物」になるまで

村井保固の若き日を振り返ると、いくつかのポイントが見えてきます。

  • 最初は月給5円の安定した仕事を望む、ごく普通の青年だった
  • 勉強熱心とは言いがたいが、人に好かれ、周囲からチャンスを与えられるタイプだった
  • 慶應義塾では、犬養毅や尾崎行雄と同じ時代を過ごし、「自分は商人になる」と宣言した一言が福沢諭吉の目に止まる
  • 英語も簿記もできないのに、人格と将来性を買われてニューヨーク行きの切符を手にする
  • ニューヨーク到着後は、頑固なまでの「1ドル馬車事件」や、言葉ができない中での接客など、常識外れだが印象に残る行動を連発
  • 最終的には、森村ブラザーズ店内で「売上No.1セールスマン」として頭角を現す

最初から完璧なエリートだったわけではなく、失敗も無鉄砲さも含めて「人間味」あふれる若者。
そんな村井保固が、ここからどのようにして森村ブラザーズを大きく育て、ニューヨークで成功していくのか。

その後半生については、また別の記事でご紹介していきたいと思います。

参考文献

「村井保固伝」

「紐育日本人発展史」

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