1870年代ニューヨーク、日本人パイオニアの生活実態|物価・下宿・英語の壁

明治初期、日本からニューヨークへ渡った日本人は、まだごく少数でした。
1872年の日本領事館設置を起点に、政府関係者や商人たちが暮らし始めた当時のニューヨーク。
本記事では、1870年代の物価、ボーディングハウスでの生活、節約の日々、そして英語の壁など、
日本人パイオニアたちのリアルな生活実態を史料をもとに解説します。


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明治初期、日本人パイオニアはニューヨークでどう暮らしていたのか

明治初期、19世紀後半。
日本からニューヨークへ渡ったごく少数の日本人パイオニアたちは、異国の地でどのような生活を送っていたのでしょうか。

今回は、ニューヨークに日本人社会が生まれ始めた1870年代を中心に、当時の暮らしぶりを具体的に見ていきます。


ニューヨーク日本人社会の始まり ― 1872年の領事館設置

ニューヨークに日本人社会が形成され始めた最初の大きな節目は、1872年に日本領事館が設置されたことだと考えられます。

初代領事を務めたのは 富田哲之助です。正式には「領事心得」という役職で実質トップの立場でした。
彼はのちに日銀の総裁を務めたことでも知られている人物です。また勝海舟の愛弟子としても知られ、文明開化に対して前向きだった勝の意向をうけ1867年に、愛息の勝小鹿の海外留学に同行しました。

仙台藩士だった富田は戊辰戦争の際は幕府方の人間でしたが、留学経験のある経歴が評価され、1872年に初代ニューヨーク領事に任命されます。現在はニューヨーク「総」領事館ですが、当時は領事館が現地のトップ外交機関だったのです。

当時ニューヨークに渡っていた日本人は、本当にごくわずかでした。
富田領事のような政府関係者、国費留学生、そして新井領一郎のようなビジネス関係者。
いずれも、渡航費や生活費の高さを考えれば、選び抜かれた「スーパーエリート」だったと言えるでしょう。


発展途上だった1870年代のニューヨーク

1870年代のニューヨークは、世界中から移民が流入し始めた時代でした。
アイルランド系、イタリア系、中国系など、多様な人々が集まり、街は活気に満ちていました。

とはいえ、この時代はまだ発展の初期段階です。
グランド・セントラル駅やブルックリン・ブリッジが完成するのは、まだ先のことでした。
高層ビルが林立する近代的なニューヨークとは程遠く、どこか未完成な雰囲気も残っていました。


驚くほど高かったニューヨークの物価

当時の為替レートは、おおよそ 1ドル=1円
しかし、物価水準は日本とアメリカで大きく異なっていました。

例えばニューヨークでは、

  • リンゴ2個で50セント(0.5ドル)

一方、日本では、

  • うどん1杯が8厘(1円の1000分の8)

単純計算すると、リンゴ1個の値段で、うどんを30杯以上食べられるほどの差がありました。
日本から来たエリートたちも、現地では厳しい節約生活を強いられていたのです。


ボーディングハウスという暮らし方

前回のブログでも紹介しましたが、当時のニューヨークでは、「ボーディングハウス」と呼ばれる下宿が一般的でした。
食事付きで、家賃は 2週間で月20ドル前後。3食付きが一般的だったようです。
これは、日本で巡査になりたての警官の月給(約6円)と比べても、かなりの高額です。
のちに絹織物ので貿易で成功する堀越善重郎は、極貧でニューヨークを訪れ1週間7ドルでボーディングハウスの廊下で生活していたといいます。

調査によると、この時代のニューヨーク市民の3~5割が、人生のどこかでボーディングハウスに住んだ経験があるとも言われています。

民族ごとに好まれる下宿も異なり、
アイルランド系、ユダヤ系、イタリア系など、それぞれのボーディングハウスが存在しました。

その中には、日本人好みのボーディングハウスもあり、新井領一郎や森村豊らも、そうした下宿で暮らしていたとされています。
日本領事館関係者も住んでおり、いわば「日本人御用達」の下宿でした。

若き日本人たちがここに集い、将来を語り合った様子は、まるで後年の漫画家アパートのようでもあり、想像すると非常に興味深いものです。


徹底した節約生活 ― 木箱で寝る日々

ボーディングハウスに入る以前、森村豊はさらに過酷な生活を送っていました。
店の地下に置かれた、日本から商品が送られてきた木製の輸送箱の中に藁を敷いて寝ていたという逸話も残っています。

また、リンゴを半分に切って、新井領一郎と分け合って食べたという話も有名です。
リンゴ半分でも、日本のうどん15杯分に相当する値段だったのです。

この二人は、渡米当初、非常に親しい間柄だったことがうかがえます。


新井領一郎が語る、渡米当初の食生活

後年、新井良一郎は当時を振り返り、次のように語っています。

「私どもは、石にかじりついても志を捨てぬ覚悟で渡米した」

朝食はパンとコーヒー、
昼食は1セントの菓子を3つ、
夕食は安い食堂で、最も安い牛肉を選ぶ。

「アメリカの牛肉はなぜこんなに硬いのだろう」と思っていたら、
単に一番安い肉を食べていただけだった、というエピソードも残されています。


英語力という大きな壁

では、彼らの英語力はどうだったのでしょうか。

森村豊も新井領一郎も、日本で英語を学んではいましたが、
数年の学習だけで、実際のニューヨーク社会で通用するはずもありません。

当時の日本では、

  • アルファベットに触れる機会も少なく
  • ネイティブ教師もほとんど存在しない

そんな環境でした。

森村豊が渡米当時の思い出を振り返る記事がありました。そこには「リンコルン」「オンドルスタンド」「イングリシ」というカタカナが並びんでいます。それぞれLincoln/understand/Englishなのですが、そのままカタカナ読みしても全く通じなかったようです。福沢諭吉の慶應義塾仕込みの英語はあっさり惨敗といったところです。あれから150年たっても日本人の英語力は一向に向上しないですね。


ビジネスカレッジで学ぶという選択

森村豊は、ニューヨーク近郊ポキプシーにあった イーストマン・ビジネス・カレッジ で、
約3か月間、英語とビジネスを学びました。

学費は 3か月で100ドル
決して安くはありませんが、富田領事の紹介もあり、ここで学ぶことを決断します。

イーストマンビジネスカレッジ(Eastman Business College)は、ニューヨーク州ポキプシーにあった19世紀を代表する商業学校です。
1859年に教育者ハーヴェイ・G・イーストマンによって設立され、アメリカ国内でも有数の規模を誇りました。「20世紀最大級の小売店」と言われたKマートの創業者セバスチャン・S・クレスゲ(S. S. Kresge)はここの卒業生として知られています。

富田自身は、渡米中にニュージャージー州の商業学校で商業教育を受けた経験を持っています。
そこで出会ったのが、商業教育者 ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー
(William Cogswell Whitney) でした。

冨田はこのホイットニーの能力に注目し、
1875年、彼を日本に紹介・斡旋します。
その結果、ホイットニーは日本に招かれ、
商業講習所(後の一橋大学の前身) において、
簿記や商業実務といった近代的商業教育の導入に大きく貢献しました。

そして森村にはイーストマンビジネスカレッジを紹介しました。冨田は、単に個人のつながりで学校を紹介したのではなく、
その時代ごとに「日本人が最短で実務を身につけられる場所」を見極め、
適切な教育機関を勧めていたと考えられます。

イーストマン・ビジネス・カレッジをすすめた理由は、
実務を前提とした商業教育機関だった点にあります。

この学校では、簿記、会計、商業文書の作成、銀行取引の模擬演習などを、
実際のビジネスを想定した形式で学ぶことができました。
英語を「話せるようになる」ことよりも、英語で仕事ができるようになることを目的とした教育だったのです。

英語は不得意な森村でしたが、ここでの成績は上々だったようです。また商人として必要なことを教えられ、常にポケットのなかにペンをいれるようになったそうです。

後年、森村ブラザーズの大成功をうけて、この学校は日本人の間で評判が高まりました。
森村豊の実子や甥、後の東洋陶器社長の大倉和親、福沢諭吉の息子・桃介と捨次郎、また多くの日本人留学生が、渡米後ここで学ぶようになりました。

1900年代初頭の日本語新聞には、
「本校を卒業した日本人は100名以上に達し、多くが成功している」
と誇らしげに広告が掲載されています。


おわりに ― 想像以上に厳しかった「最初のニューヨーク生活」

現在、アメリカで暮らす日本人でさえ、英語や文化の壁に苦労します。
情報がほとんど入ってこなかった明治初期に、日本から単身ニューヨークへ渡り、
ゼロから英語と商習慣を学んだ彼らの苦労は、計り知れません。

それでも彼らは、節約と努力を重ね、
やがて日米ビジネスの礎を築いていきました。成功の裏にはこのような苦しい時代を生き抜いた生活力があったのです。

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