明治初期、日本からアメリカへ渡り、日米貿易の礎を築いた若き日本人実業家たちがいました。
彼らは後に「オーシャニック・グループ」と呼ばれ、新井領一郎や森村豊といった名を残す人物を輩出します。
しかし、このグループがどのように生まれ、誰が中心人物だったのか、そしてその後メンバーたちがどのような人生を歩んだのかは、意外と知られていません。
本記事では、写真資料や日記といった一次史料をもとに、オーシャニック・グループの実像とその後を詳しく解説します。

オーシャニック・グループとは何か
オーシャニック・グループとは、1876年(明治9年)にアメリカへ渡った6人の若き日本人ビジネスマンの集団です。
現在、彼らが写った集合写真は森村商事株式会社の資料として知られ、インターネット上でも広く共有されています。
この写真には、後に日米貿易史に名を残す人物たちが写っています。
写真に写る主要メンバー
新井領一郎 ― 生糸貿易で成功した実業家
写真の前列左端、足を組んで座っているのが新井領一郎です。
新井は生糸貿易に尽力し、アメリカシルク協会の役員をつとめ「日本生糸貿易の創始者」と呼ばれました。アメリカのビジネス社会でも評価を受けた人物でした。信念を貫きながら事業を成功させた点で、当時の日本人実業家の中でも特筆すべき存在です。
森村豊 ― 22歳で渡米した若き才能
写真の後列中央に立つのが、当時22歳の森村豊です。
森村は46歳という若さで亡くなりますが、アメリカ人のし好を独自に研究し陶磁器の直貿易で大成功したその志は後輩たちに引き継がれました。現在も世界的に人気のあるNoritakeの創業者一族として、アメリカで高い信頼を得るブランド形成へとつながっていきました。
オーシャニック・グループの発起人・佐藤百太郎

若きビジネスマンたちを率いたリーダー
写真の前列中央に座る佐藤百太郎は、オーシャニック・グループの実質的な発起人であり、リーダー的存在でした。
彼は若者たちを「司法実習生」という名目でアメリカへ送り出し、共同でビジネスを行う体制を築きます。
蘭学者の家系に生まれて
佐藤百太郎は1853年生まれ。祖父は江戸時代に著名な蘭学者として知られた佐藤泰然です。千葉県佐倉や東金を拠点とした佐倉藩の藩医として名を馳せ現在の順天堂大学の基礎を作った人物として知られています。
泰然は先見の明があり、これからもっと海外に触れるべきだということで親族を次々と海外に送り込んでいました。

高橋是清の日記に残る「同船者」

佐藤泰然はすでに蘭学ではなく世界の中心は英語であることを悟っており、孫の百太郎をアメリカ人宣教師のジェームズ・ヘボンの英語塾に通わせました。ここでは三井財閥を支えた益田孝や、佐藤の叔父にあたりのちに外交官として活躍する林董などそうそうたるメンバーが集っていました。同じ年の高橋是清(元総理大臣、226事件で暗殺)とはここで出会いました。
高橋是清の自伝によると高橋同じ仙台藩の富田鉄之助らとともに1867年に渡米しました。その際に佐藤が同船していたことが書かれています。高橋は渡米後奴隷に売りとばされましたが、解放後サンフランシスコの佐藤の店で働いていたとも書かれています。
佐藤はこのときなんと14歳でした。サンフランシスコで働きながら貿易商としての道を歩み始めたのでした。
ニューヨークで活動を開始
その後、佐藤は1870年頃からニューヨークに滞在していたといいます。1870年から1875年までブルックリンのPolytechnic Institute of Brooklynに在学していた記録が残っており、「明治事物事始」には1871年に佐藤がニューヨークで実地調査をしたことが記されているそうです。1875年にはニューヨークに「日本亜米利加両国組合会社」(Japanese American Commission Agency)を設立し日本茶や陶器、漆器をアメリカに輸入する傍ら日本へアメリカの機械などを輸出していたといいます。
また1871年の岩倉具視のアメリカ視察団の通訳をつとめました。その有能ぶりから岩倉から政府での仕事を打診されたが、固辞したそうです。この時に国費留学生に切り替えたようです。
米国商法実習生を募りアメリカで本格的にビジネス展開
1876年、佐藤は帰国しアメリカで本格的にビジネスを始めるためのメンバーを探しました。その呼びかけに集まったのが、新井領一郎(生糸)、森村豊(日本雑貨)、増田林蔵(狭山茶)、鈴木東一(薬品)、伊達忠七(高級絹織物)の5人でした。生年不詳の伊達を除いてみな20歳前後の若いメンバーでした。

アメリカで彼らが開いたのが「日の出商店」でした。1876年のTrow’s New York City Directoryには”Sato Momotaro, feygds. 97 Front, h 560 Lex. av.”と書いてあります。”feygds”(だと思うのですが)の箇所は職業欄でして、おそらくforeign goodsのことだと思います。
店舗規模は約20フィート×75フィート(約6m×22m)と小規模でしたが、フィラデルフィア万博直後の好景気もあり、当初は成功を収めます。
成功から挫折へ ― 佐藤百太郎の転機
しかし、佐藤百太郎の事業は次第に行き詰まります。
アメリカ人女性との結婚により生活費が増大し、散財が重なり、資金繰りが悪化しました。
日本から来た債権者とともに帰国することになり、再渡米の夢は叶いませんでした。
晩年と静かな退場
帰国後、佐藤は横浜で新井領一郎のビジネスを補佐しますが、再びアメリカで事業を行うことはありませんでした。
1910年、57歳で死去。1890年発行の『順天堂医学雑誌』には、彼の名が役職者として残されています。
かつて若者たちを率いたリーダーは、静かに歴史の表舞台を去りました。

まとめ|オーシャニック・グループが示すもの
オーシャニック・グループの物語は、
成功だけでなく、挫折や失敗も含めた明治日本人の海外挑戦史そのものです。
新井領一郎や森村豊の成功の背後には、佐藤百太郎という先駆者の存在がありました。
彼の人生を知ることは、日米貿易史をより立体的に理解することにつながります。
佐藤の生涯は不明なところが多く、新しい情報がわかれば随時更新したいと思います。

