
ニューヨークの海水浴場として広く知られる、ブルックリンの南端で大西洋に面したコニーアイランド。この場所がニューヨーカーの憩いの場となったのは19世紀末から20世紀初頭でした。当時はルナパークをはじめ世界中から集まった最新のテクノロジーとエンターテインメントが交錯する、アメリカ最大の熱狂的な歓楽街が出来上がったのです。
まばゆい電飾と巨大なコースターの喧騒のなかで、当時のニューヨーカーたちを虜にし、後にアメリカのアーケードゲーム史に重要な足跡を残すことになる、ある「日本人の商売」がありました。それが「Japanese Rolling Ball Game(日本式玉ころがし)」です。
1. 浅草の盛り場からニューヨークのビーチへ
このゲームのルーツは、明治期の東京・浅草などの盛り場で大流行していた「玉ころがし」にあります。傾斜した木製の盤面に向けて球を転がし、数字が割り振られたポケットに球を落とすという、ルーレットとピンボールを掛け合わせたようなシンプルな構造でした。
これが海を渡ったのは19世紀末のこと。ニュージャージー州アトランティックシティで「日本茶園(Japanese Tea Garden)」を営んでいた櫛引弓人が、夏の客寄せとして2台のゲーム台を設置したのが始まりとされています。
これが予想を遥かに超える利益を叩き出したため、流行はまたたく間にニューヨークのコニーアイランド(Coney Island)やロックアウェイ・ビーチといった大衆向けサマーリゾートへと飛び火していきました。
2. アメリカ人を熱狂させた「景品交換(Redemption)システム」

日本のレトロゲームが、なぜ言語も文化も違うアメリカで爆発的なヒットとなったのでしょうか。そこには、一世たちの見事なビジネス現地化(カスタマイズ)がありました。彼らが導入したのは、現代のアミューズメント施設でも見られる「景品交換(Redemption)システム」の先駆けでした。
- ポイントの累積機能(帳簿管理): ただその場で遊んで終わりではなく、プレイヤーが獲得したスコアは店側の「帳簿(ledger)」に記録され、シーズンを通してポイントを貯めることができました。
- 異国情緒あふれる美しい景品(Exotic Wares): 貯まったポイントに応じて、当時アメリカで珍重されていた日本の陶磁器、伝統工芸品、絹製品、精巧なおもちゃなどと交換できる仕組みでした。
「ゲームでポイントを貯めて、後からお目当ての豪華な景品に換える」というこのインセンティブ設計は、アメリカのアーケードゲーム史において、現代のプライズゲームのビジネスモデルの元祖であると評価されています。
3. サーフ・アベニューの熱気と文化人の目撃談
当時の日本語新聞の広告をみると、玉屋の景品用の品を取り揃えていると書いてあります。当時の日本人社会では大きな商店の広告ということで、玉屋の景品が大きな収入源だったことがわかります。また玉屋でのアルバイトの求人広告もあります。コニーアイランド以外での求人もあり、アメリカの行楽地で広く玉屋が浸透していることがうかがえます。





1900年代初頭には、コニーアイランドのSurf Avenueやボードウォーク周辺だけで10軒以上の日本人の玉ころがし店がひしめき合っていました。
当時の地域史や、水谷渉三の『紐育日本人発展史』などの記録からは、当時の生々しい活気が伝わってきます。数十万ドルの資本金で売り上げが100万ドルを超えるお金を稼ぎ出すほどの経済的成功を収めました。そのため、なんと中国人の商人たちが「日本人のフリをして」この商売に参入するという奇妙な現象まで起きていたといいます。中国人が日本風の寿司レストランやラーメン店をオープンするのと何か似てますね。
また、明治末期にニューヨークに滞在していた文豪・永井荷風もコニーアイランドを訪れ、この熱狂を目撃しています。彼は『アメリカ物語』や日記の中で、現地のアメリカ人大衆に混じって、40歳を過ぎた日本人移民たちが「玉ころがし」の露店で大繁盛している様子を書き残しています。冒頭を以下に紹介します。
ここに、日本の玉転がしーJapanese Rolling Ballと言えば、この広いコニーアイランド中、数ある遊びの中でも、随分と名の知れ渡ったものである。何の事はない、奥山でやっている射的や玉転がしも同様、転がした玉の数で、店一杯に飾ってある景物を撮る、というのに過ぎない、が、第一が日本人という物珍しさ、第二が、運良くば金目の品物が取れるという勝負気とで、いつ頃から評判になったとも知れず、日露戦争以後は一層の繁昌、毎年の夏、この玉転がしの店は増えるばかりである。
また永井は日本人経営の玉屋のひとつに住み込みで働いたことも書いてあります。その時は食事と寝床がついて一週間で12ドルの給金だったと「あめりか物語」に書いてあります。

4. 砂に消えた足跡が語るもの
当時のコニーアイランドは、汚職警察や政治ボス、そしてマフィアの利権が地網のように張り巡らされた無法地帯でした。Surf Avenueに店を構えた名もなき「玉屋」の経営者たちは生き残るために現地の裏社会と泥臭く渡り合い、ショバ代を支払い、グレーゾーンの境界線を綱渡りしながらサバイバルを続けました。彼らは「おとなしく隔離された東洋人」などではなく、ニューヨーカーの財布を抉るタフなビジネスパーソンだったのです。
この熱狂は1930年代に終わりを告げました。ニューヨーク市長ラガーディアが仕掛けたマフィアの資金源(賭博機)一掃という猛烈なガサ入れの嵐に巻き込まれ、また大恐慌の荒波に呑まれ、そして1941年の真珠湾攻撃によって彼らの全資産は「敵国資産」として連邦政府に没収され、強制的に歴史の表舞台から消し去られたのです。
現在、コニーアイランドのボードウォークに「玉屋」の看板を見ることはありません。しかし、彼らの遺伝子は死んでいません。一世たちが帳簿を広げてアメリカ人にポイントを握らせたあの「日本式玉ころがし」の物理メカニズムと景品交換システムは、のちに完全自動化され、現代のアメリカの全ゲームセンターの絶対的定番である「Skee-Ball(スキーボール)」へと脱皮しました。今もコニーアイランドのアーケードで鳴り響くスキーボールの轟音と、吐き出される大量のチケットこそは、100年前の一世たちが流した汗とハッタリが、アメリカのポップカルチャーの遺伝子に完全に組み込まれた何よりの証拠なのです。

