
1876年、日本からアメリカへ渡った若き実業家たち。
その中心にいたのが、佐藤百太郎を軸とする、いわゆる「オーシャニック・グループ」でした。
新井領一郎、森村豊といった後に名を残す人物がいる一方で、同じ船に乗り、同じ志を抱きながらも、歴史の表舞台に名を刻むことなく姿を消していった人々がいます。
今回は、集合写真に写る3人の“その後”に焦点を当ててみたいと思います。
こちらは後半のエピソードです。前半はこちらです。
増田林三郎 ――「お茶の直貿易」を夢見た男

集合写真の前列右端に写る人物が、増田林三郎です。
増田は、日本茶の直貿易(外国人商人の仲買を通さず直接輸出する試み)を実現しようとアメリカを目指しました。
佐藤百太郎の義兄が茶貿易に関わっており、佐藤もまたお茶の直貿易の可能性を探って狭山茶の業者と連絡を密に取っていました。その縁でオーシャニック・グループに加わったのではないでしょうか。
新井領一郎の日記には、1877年1月――アメリカで迎えた最初の正月に、
新井・森村・増田の3人がセントラルパークを歩いたという記述が残されています。
異国の地で、ささやかな正月を祝った光景が目に浮かびます。
しかし、日本国内の茶業組合の力が強く、統一的な輸出体制を築けなかったこともあり、茶の直貿易は思うように進みませんでした。
その影響もあってか、増田林三郎はやがて帰国したとみられています。
伊達忠七 ――三井組の名を背負って海を渡ったが

写真の後列右側の人物が伊達忠七です。
伊達は、当時の三井組(のちの三井物産)に関係する人物で、日本の美術品などをアメリカで販売する目的で渡米しました。
1876年は、まさに三井組が日本で本格的に体制を整え始めた時期でもあります。伊達は渡米前の1873年にウィーン万博に日本の商品を出品する手伝いをしたこともあり、当時の日本では貴重な「海外派」であったことが窺えます。満を辞して伊達を送り込んだことは想像に難くないです。
伊達の資料も多くないのですが、比較的早い段階で帰国したことがさまざまな資料で確認されています。
日本で絶大な信用を誇った三井組も、当初のアメリカ貿易では苦戦しました。
一説には、三井側が新井領一郎に生糸販売を持ちかけたという話もありますが、新井は兄たちが立ち上げた同伸会社の事業に専念しており、実現には至らなかったと考えられます。
1895年以降、三井は再び海外貿易に本格参入し、生糸輸出で大きく飛躍しますが、伊達忠七がその時協力していたかは確かではありません。
鈴木東一郎 ――最も悲劇的な結末

最後に、写真の後列左側に立つ人物、鈴木東一郎です。
丸善の販売員としてアメリカに派遣された鈴木は、慶應義塾の卒業生でもありました。
丸善というと現在では書店の印象が強いかもしれませんが、明治初期に総合商社として立ち上げられ、海外の知識を日本に輸入する業務をしていました。
創業者の早矢仕有的(はやし・ゆうてき)は慶應義塾の門下生で、海外貿易を推奨していた福沢諭吉の協力で丸善を立ち上げました。また福沢は優秀な人材を積極的に早矢に紹介していたそうです。
佐藤百太郎は福沢諭吉にオーシャニックグループのメンバー集めの相談していたことを考えると、その過程で鈴木の名が挙がったのではないでしょうか。

1876年に渡米した鈴木ですが、翌1877年4月には理由不明のまま帰国。
そしてそのわずか2か月後、1877年6月、神奈川県の山中で自ら命を絶ったと記録されています。
丸善の社史や写真資料には、鈴木東一郎の名はほとんど残っていないといいます。
1910年頃に渡米した人物が「丸善として初めてアメリカで活動した社員」と紹介されていることからも、鈴木の存在は歴史の中で消えてしまったようです。
新井領一郎の日記には、鈴木の死を悼み、仲間内で弔ったことが記されています。
同じ志を胸にアメリカへ渡った仲間の死を知ったとき、彼らは何を思ったのでしょうか。
成功者と、歴史に名を残さなかった人々
佐藤百太郎を中心とするオーシャニック・グループの中で、
最終的に事業的成功を収めたのは、新井良一郎と森村豊でした。
一方で、佐藤百太郎を含む他の4人は、志半ばで帰国、あるいは悲劇的な形で人生を終えています。
日米貿易の黎明期は、成功の物語だけでなく、こうした名もなき挑戦者たちの挫折と犠牲の上に築かれていたのです。

