知られざるニューヨーク日本人史、モリムラブラザーズの経営哲学と「米状神聖」

――兄・市左衛門との“二人三脚”物語

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今回ご紹介するのは、森村財閥を支えた弟・森村豊の人柄と、兄・森村市左衛門との関係がよく表れているエピソードです。
仕事一筋で堅物な面がありながらも、実はとても柔軟で、人をよく観察し、その適性を活かすことのできる経営者でした。


英語も帳簿もできない? それでも「一番の接客担当」に

ニューヨークのお店が大きくなってきた頃、豊は日本にいる兄にこう頼みます。

「英語ができて、帳簿もつけられる人を、私のアシスタントとしてニューヨークに送ってほしい」

今の感覚で考えても「英語もできて会計もできる人材」というのは、そう簡単に見つかる条件ではありません。
明治初期は今よりももっと状況は厳しく、兄は「そんな都合のいい人材はなかなかいない」と頭を抱えていました。

そこに登場するのが、村井保固(むらい・やすかた)という人物です。
慶應義塾出身で、福澤諭吉の紹介によって森村家とつながり、彼がニューヨークへ送り込まれることになりました。

ところが、いざニューヨークに着いて豊と対面してみると──

豊:「あなたは英語はできますか?」
村井:「できません」
豊:「帳簿はつけられますか?」
村井:「できません」

そもそもこの時代は「英語+帳簿」なんて人材はおらず、海外に留学したい若者は多かったものの、「商人」として海外に行くことを望む人はさらにすくなかったのです。そんな中「商人として外国に行く」ことを希望した村井は唯一の人材だったといえます。それでも豊は思わず、「兄はなぜこんな人物を私のところへ送ってきたのだろう」と嘆いたといいます。

しかし、当時アメリカまで渡ってくること自体が一大決心です。
せっかく海を渡ってきた人間を、その場で追い返すわけにもいかない。そこで豊は、「とりあえず働かせてみよう」と考えます。

実際に店頭に立たせてみると、状況は一変します。
村井は英語こそできないものの、接客が驚くほどうまい。言葉が不自由でも、なぜか人に信頼される雰囲気を持っており、常連客からは

「ビッグフェローはどこだ?」

と、ギョロリとした特徴的な大きな目玉をもつ村井のことを親しみを込めて呼んだといいます。写真に残る彼の姿からも、どこか“只者ではない”雰囲気が漂っています。

それを見た豊は、すぐに方向転換します。

「村井君は接客に向いている。では自分は裏方の帳簿係に回ろう」

自分の希望通りの“英語も帳簿もできるアシスタント”ではなかったものの、
目の前の人材をよく観察し、その強みを活かすように自ら役割を変える。
ここに、豊の柔軟さと、人を見る目の確かさが表れています。


「補助金は受け取らない」独立自営の精神

モリムラ・ブラザーズ(のちの森村財閥)がビジネスを拡大していた1880年頃
日本政府は、海外での貿易を積極的に奨励していました。

特に推し進められていたのが、いわゆる「直貿易」(じかぼうえき)。いわゆる外国人商人が貿易の仲介をすると多額のマージンがかかるため、日本人が経営する商社やメーカー独自の販売網を経て商品を「直接」輸出するスタイルです。
政府はそのような事業者に対して
補助金を出し、多くの日本人商店がニューヨークにも進出していました。

申請さえ通れば、ある程度の資金援助が受けられる──
まさに「国が後押ししてくれる」仕組みです。

ところが、森村商店はその補助金を一切受け取りませんでした。

「政府の世話になると、人間は甘えてしまう。
楽な道に流れてはならない」

そう考えたからです。
国の庇護に寄りかかりすぎてはいけないという思想がありました。

そのため、モリムラ・ブラザーズは徹底した質素倹約を貫きながら、
アメリカ人の好みを研究し、地道なマーケティングに力を注ぎました。

話はそれますが、政府から補助金を受けていた多くの日本商店は、
やがて経営努力を怠るようになり、景気悪化や補助金削減の波を乗り越えられずに、約10年ほどでほとんどが姿を消してしまいます。

補助金に頼らず、現地の市場をきちんと見て商売を続けた森村商店だけが生き残った──
ここにも、豊と森村家の「独立自営」の精神が色濃く表れています。


兄・市左衛門という「哲学者」と、弟・豊への絶対的信頼

こうした森村家の価値観の背景には、兄・森村市左衛門の存在があります。
彼は一種の哲学者であり教育者でもあり、

「人が幸せになるためにはどうすべきか」

を常に念頭に置いていた人物でした。

市左衛門は、
『独立自営』というタイトルの本を著し、
政府に頼らず独立して生きることの大切さを説いています。
いわば、今でいうビジネス書の先駆け
のような存在です。

しかもそれは、世の中に向けた“自慢話の成功本”ではなく、
社員に向けた教えとして書かれたものでした。
「会社のトップが、自社の社員に向けて出す本」
──今でよく見られるスタイルを、すでに当時から実践していたとも言えます。

そんな兄は、弟・豊のことを心から尊敬していました。

「今の会社があるのは、すべて弟のおかげだ。
弟は自分より精神的にもずっと上の存在だ」

15歳ほど年の離れた弟に対して、ここまでの賛辞を送る兄──
その言葉から、兄弟の深い信頼関係がうかがえます。


「米状神聖」──弟からのリクエストは“神聖なるもの”

日本の森村商店には、「米状神聖」という会社の方針がありました。

「アメリカにいる弟・豊から上がってくるリクエストは、
どんなに難しくても必ず応える。
それは“神聖なもの”として扱わなければならない」

──これが本社側に徹底されていたルールでした。

弟が「こんなコーヒーカップを作ってほしい」
「こういうスタイリッシュなイラストの商品を作りたい」と依頼すれば、
日本本社は「何が何でも応える」姿勢で動いたのです。

そこには、単なる血縁関係を超えた、「遠く離れた現場で戦うパートナーへの敬意」がありました。


兄弟でつくった土台の上に残ったもの

こうして見ると、森村家の成功は、
一人のカリスマ経営者の物語ではなく、

  • 現場で人材を見極め、柔軟に役割を変える弟・豊
  • 哲学を持って会社の土台を築き、弟を心から信頼した兄・市左衛門

この兄弟の二人三脚によって形づくられたものだったことがよくわかります。

補助金に頼らず、
アメリカ人の好みを地道に研究し、
社員には独立心を説き、
遠く離れた弟の言葉を“神聖なリクエスト”として扱う──。

その積み重ねの結果として、
多くの日本人商店が消えていったニューヨークで、
森村の店だけが生き残り、やがて大きな財閥へと成長していきました。


こうしたエピソードを振り返ると、
現代の私たちにも通じるメッセージが見えてきます。

  • 「条件ぴったりの完璧な人材」はなかなかいない
  • 目の前にいる人の“強み”を見つけ、活かすこと
  • 補助金や支援に頼り切るのではなく、自分の足で立つ覚悟
  • 離れた場所で戦う仲間の声を、真剣に受け止めること

森村豊と兄・市左衛門の物語は、
100年以上経った今もなお、ビジネスと生き方のヒントを与えてくれます。

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