教科書には載らない福沢諭吉──「貿易国家」日本を構想した思想家

福沢諭吉と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは
「学問のすすめ」「慶應義塾」「近代日本の思想家」といった姿でしょう。

自由・独立・平等を説いた啓蒙思想家。
一万円札の顔としても、きわめて“教科書的”な存在です。

しかし当ブログでたびたび登場する福沢諭吉は貿易により日本の国力を高める、「別の顔」をみせています。そしてアメリカで活躍する若者たちを支援しました。
本稿では、福沢諭吉がどのようにして商業と貿易を文明国の条件と捉え、人材育成・教育・信用という側面から、アメリカに挑んだ日本人たちを支えていったのかを見ていきましょう。


思想家・教育者という「安全な福沢像」

戦後日本で語られてきた福沢像は、主に次のようなものです。

  • 封建思想を批判した啓蒙家
  • 近代教育の父
  • 政治や実業から距離を置いた在野の知識人

このイメージは、決して間違いではありません。
しかしそれは、福沢の一側面だけを切り取ったものでもあります。


実は福沢諭吉は「貿易国家・日本」の設計者だった

福沢の著作や行動を丁寧に追っていくと、はっきり見えてくる一貫した思想があります。

日本が独立を保つには、
世界市場で稼げる国にならなければならない。

これは精神論ではありません。
極めて現実的な国際経済観でした。


福沢の貿易思想ー商業は卑業ではなく、文明国の条件

江戸時代以来の
「士農工商」「商人は下」という価値観を、
福沢は明確に否定しました。

彼の思想がよく表現されている代表的なもののひとつ『文明論之概略』にはこのような記述があります。

貿易の盛なるは内国の人民に智見を開き、文学技芸の盛に行われて其余光を外に放たるものにて、国の繁栄の微候と云う可ければなり。(「文明論之概略」第9章より)

つまり、貿易が盛んであることは、その国の知力、生産力、そして独立国としての権利を世界に示している証であり、国の繁栄そのものであると考え、貿易を推進したのです。


商法講習所への関与──官による実装を後押し

貿易立国となること、そのために優秀なビジネスマンを育成するための学校設立にも福沢は協力しています。1875年、商法講習所(のちの一橋大学)設立の際には、設立基金募集の趣意書の執筆を快諾したました。この学校は元アメリカ大使森有礼や渋沢栄一が中心となって設立したもので、アメリカでビジネスカレッジの校長だったウィリアム・ホイットニー氏を招へいする力の入れようでした。簿記の教科書には福沢の訳書「帳合之法」が使われていました。

福沢は創設者ではありませんが、
その設立思想・人材ネットワークに深く関与していました。

  • 商業教育の必要性を世論化
  • 実務重視の教育モデルを提示
  • 慶應で培ったノウハウを間接的に提供

官が制度を作り、
民が思想と人材を供給する。
ここでも福沢は、裏方として貿易国家化を支えています。

後に生糸貿易で大成功を収めた新井領一郎や羽二重貿易の第一人者である堀越善重郎はここで学びました。

慶應義塾の塾生に「貿易」という進路を示す

また、福沢は慶應義塾の塾生たちに貿易という進路を提示したことでも日米貿易に貢献しています。

明治維新直後、全国から集まった血気盛んな若者たちの多くが志したのは、政治家や外交官の道でした。
それに比べ、商人を目指す者は決して多くなかったといいます。

そのような中で、旧知の森村市太郎(のちの市左衛門)は、弟の森村豊を日米貿易に従事させるべく、慶應義塾に入学させます。
ここで佐藤百太郎との出会いがあり、豊はアメリカ行きを決意することになります。

同じ森村組の村井保固も、同期には犬養毅や尾崎咢堂といった後に名を成す政治家がいましたが、彼自身は商人の道を志しました。
そして福沢諭吉の紹介によって、森村組に入社し渡米、「ニューヨーク日本社会三元老のひとり」とまで言われるようになりました。

また、丸善の鈴木東一郎が佐藤百太郎らとともに「オーシャニック・グループ」として渡米した背景にも、
創業者の早矢仕有的と福沢の親しい関係があったのではないでしょうか。


日米貿易の黎明期を支えた「信用としての福沢」

福沢の貢献は、思想や教育にとどまりません。
実務のレベルにおいても、彼は日米貿易を支えていました。

1876年、森村豊がニューヨークで商売を始めた当時、
アメリカで得た利益(ドル)を日本円に換金する正式な金融ルートは存在していませんでした。

横浜正金銀行が設立される以前、
森村組はやむを得ず、次のような非常に手間のかかる方法を取っていました。

  • アメリカで得た利益をニューヨーク領事館に預ける
  • 領事館から受領証を発行してもらう
  • その受領証を日本へ送付
  • 外務省を通じて日本円に換算してもらう

まだ商人として知名度の低い森村組にとってネックだったのは「外務省での換算」でした。ここで助けとなったのが福沢です。政府から顔を知られている福沢の存在が森村組の現金への換算に一役買いました。まさに、福沢が「信用」としてお金のやりとりに実務的な補助をしたのです。


横浜正金銀行に人材を供給

明治初期から長年大蔵卿(現在の財務大臣)を務めていた大隈重信は外国為替を扱える銀行の必要性を強く感じていました。その時相談に乗ったのが福沢諭吉でした。自分の「信用貸し」で海外での儲けが日本円に換算されることに面倒を感じていたのは想像に難くありません。また、福沢の知縁が多く貿易に従事していたことからもアドバイスを必要としたのでしょう。

そうして1880年に設立されたのが横浜正金銀行です。戦後GHQに解体され東京銀行と名を改め、現在の三菱UFJ銀行の前身とされます。

福沢は大隈の相談に乗っただけではなく、多くの人材を供給しました。初代頭取の中村道太と副頭取の小泉信吉は慶應義塾の塾生でした。
当時の日本で、

  • 複式簿記
  • 英語
  • 独立自尊の精神

この3つをあわせ持つ人材は、福沢諭吉が教鞭を執る慶應義塾に集中していたのです。

こうして横浜正金銀行は、制度としては官が設立しつつも、その実務の中核は、福沢諭吉の思想と教育によって育てられた人材によって支えられていったのです。


息子たちをイーストマン・ビジネス・カレッジへ

福沢の「貿易国家論」が本気だった証拠は、私生活にも表れています。

彼は自らの息子の捨次郎(ジャーナリスト)と桃介(電力事業に従事)をニューヨークのイーストマン・ビジネス・カレッジへ留学させています。

  • 英語
  • 会計
  • 商業実務

思想ではなく、実務で世界と戦わせる教育を選んだのです。

これは「日本は商業国家になるべきだ」という主張を、
自分の家族で実験したとも言えます。


結論:福沢諭吉は「思想だけの人」ではない

福沢諭吉は、自らアメリカに渡り、貿易の現場に立った人物ではありません。
しかし、アメリカで挑んだ日本人たちの背後には、常に彼の思想と信用がありました。

商業を卑しいものとしない価値観を提示し、
実務に耐えうる商業教育を構想し、
そして制度が未整備な時代には、個人の信用によって実務を支える。

福沢が目指したのは、国家が号令をかけて富を得ることではなく、
民間の人材が世界市場で評価される国でした。

森村、村井、堀越、新井
アメリカに挑んだ彼らの物語は、福沢諭吉の貿易国家構想が、机上の理想ではなく、現実を動かした思想であったことを静かに物語っています。

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