明治期にアメリカへ渡った日本人青年たちと下宿生活

明治時代、日本からアメリカへ渡った青年たちは、慣れない異国の地でどのように生活していたのでしょうか。現代より情報が乏しく、言葉が通じない。時には中国人と馬鹿にされることもありました。そうした環境の中でも、彼らはたくましく生きていました。

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ボーディングハウスという生活拠点

1870年代、日本人がニューヨークへ進出し始めた当時、若い独身男性や移民の主な住まいとなったのが、下宿形式の住居「ボーディングハウス」でした。現在のアパートと違い、部屋代と食事(board & room)がセットになっていることが最大の特徴です。

マンハッタンでは単身者向けのアパートはまだ整備が遅れていたため、職を求めてやってきた人々の多くは、まずボーディングハウスに身を置くことが一般的でした。


共同生活のスタイル

住人は簡素な個室を借り、食堂で提供される食事を一緒にとります。朝食と夕食が料金に含まれている場合が多く、まさに共同生活そのもの。食事は質素な家庭料理で、家事の負担も少なく、単身者にはとても便利な生活スタイルでした。

家賃はおよそ2週間20ドルだったといいます。

森村豊新井領一郎もニューヨーク内のボーディングハウスを転々として暮らしていました。新井の手紙には、「日本人と一緒に生活すると英語が上達しない」と、あえて距離を取った時期があったことも書かれています。


日本人御用達の「ダッドレーハウス」

それでも1880年代には「日本人御用達」ともいえるボーディングハウスの存在が様々な資料で確認されています。ニューイングランド出身のダッドレー婦人が経営していた下宿は、日本人は綺麗好きだという理由から、積極的に受け入れていました。

「この当時、豊、村井、新井の三人は西九丁目のダッドレー夫人の処に下宿していた。夫人は日本人だからといって毛嫌いしないので、日本領事館の人たちもここに止宿していた。」

(引用:日米貿易を切り拓いた男 森村豊の知られざる生涯)

「ダッドレー夫人は紐育には珍しい親日家であった。したがって高橋新吉、藤井三郎など紐育駐在の日本領事を始め、新井領一郎、森村豊、村井など選りすぐった日本人が心おきなく定宿気分で収まり、その外に米国人勤め人や学生たちも泊まって繁盛しておった。」

(引用:村井保固伝)

「第4第目の領事高橋新吉氏は明治14、15年の当時西9丁目55番館ダッドレー婦人の一室に起臥し」

(引用:紐育日本人発展史)

日米貿易初期にアメリカに渡った新井、森村、村井だけでなく、当時、ニューヨークの外交官のトップである高橋領事までもが暮らしていたのです。

それではこの「ダッドレーハウス」をもう少し詳しく調べてみましょう。ニューヨーク市の公立図書館NYPLのデジタルアーカイブでは、なんと住民情報City Directoryが1789年度以降のものが年度別で全てデジタル化されており、誰でも閲覧できるのです。

それによると、City Directoryで”Dudley Delia, h 55 W. 9th”という記載がありました。「h」はハウス、つまり住所ですね。これは1878年-79年のもの、つまり1878年にはその住所で生活していたことがわかりました。また他の年のものでは”Dudley Delia A. wid Joseph, h 55 W. 9th”と書かれており、Joseph氏の未亡人ということがわかります。このように旦那さんに先立たれ未亡人がボーディングハウスを経営することは当時は一般的だったようです。

そして、新井がこの”55 W. 9th”で暮らし始めたのが初めて確認できたのは1879-80年のものです。森村は職場の住所しか登録されておりませんでした。またこの年のCity directoryには他にSato Momotaro、Fukui Makoto、Yamada Osamuと他に3人ほど日本人と思われる名前がありました。少なくとも4人が「ダッドレーハウス」で暮らしていたということですね。森村や村井はこれ以降のCity directoryではダッドレーハウスに住所が登録され始めます。ちなみに森村の兄の市太郎(のちの6代目森村市左衛門)も登録されており、住所は「日本」となっています。

「貧乏ながらも熱い志を持った青年たちが夢を語る下宿」といったら言い過ぎでしょうが、慣れない異国暮らしの中、多くの若き日本人ビジネスマンたちがこの場所に救われたことは間違いなさそうです。


後の駐日アメリカ大使との奇縁

また、大正13年に駐日アメリカ大使として日本に赴任したエドガー・バンクロフト氏という人物がいました。バンクロフト氏は大の親日家として、当時悪化しかかっていた日米関係の改善に努めました。

『村井保固伝』には、彼が大使に就任した際、ニューヨークの日本人コミュニティが催したパーティで語った思い出が記されています。

「自分はコロンビア大学生として紐育なる九丁目の下宿に数名の日本人と一緒に泊まっておった。いずれも立派な紳士で内々大に敬意を表したことを記憶しておる。」

バンクロフト氏が学生だった頃、まさにこのダッドレーハウスに寄宿していたのです。彼が日本人に親近感を抱き、その後“親日派”として日米関係の改善に尽力した背景には、若き日にこの場所で日本人たちと共に生活した体験があったのかもしれません。


村井と「看板娘」キャロラインの結婚

ダッドレー婦人にはキャロラインという妹がいました。聡明で飾り気のない彼女の心を射止めたのが村井でした。1886年に結婚します。

姉のダッドレー婦人が「あの目の大きい男はきっと大物になる」と言ったことが決め手だったといいます。

◆プロポーズの言葉

  1. 成功したら富を独占せず、公共のために使う
  2. 失敗したらどん底生活でも共に苦労する

敬虔なクリスチャンであったキャロラインにとって、「社会貢献」や「自己犠牲」は魅力的に映ったのかもしれません。

結婚後は派手な社交を好まず、日本人妻以上に貞淑で評判のよい妻であったとされます。


その後の3人

村井は仕事が順調だったこともあり、当時の高級住宅地リバーサイドに豪邸を購入し引っ越しました。同時期に結婚した新井も近所に移り住み、一人残った森村は単身赴任状態だったため、村井の豪邸に頻繁に居候していたそうです。


ダッドレーハウスのその後

残念ながら、ダッドレーハウスがその後どのような運命を辿ったのかを示す資料は確認できていません。City directoryでは1884年を以降、Dudley Deliaの名前がなくなりました。単に引っ越したのか再婚して新しい旦那さんの名前で登録されているのかもしれません。ただ村井は結婚後に住所が変わりましたが、新井と森村が1888年まで同じ場所で暮らしていたことは確認できたので、Deliaさんがオーナーでなくても何かしらの形でここは「日本人ハウス」として存続していたのではないのでしょうか。そして1889‐90年のものからは新井と森村も別の住所となり、1889年には住んでいないこともわかりました。

残念ながらCity directoryは検索機能が充実しておらず、このハウスに他に誰が住んでいたか調べるのは困難でした。実際にはもっと多くの日本人が住んでいたかもしれません。ただ後年になっても多くの証言が残されているという事実そのものが、この場所が異国の地で奮闘した日本人ビジネスマンたちにとって、単なる下宿以上の“拠点”であったことを物語っているのだと思います。

参考資料

・「日米貿易を切り拓いた男 森村豊の知られざる生涯」

・「村井保固伝」

・「紐育日本人発展史」

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